一時停止場所にて

好きなものの話、わからないものの話、日々の雑念など

読書メモ 2017.12.05

小川洋子さんの『不時着する流星たち』を読んだときの読書メモ。

 

読みながら、「あ、わたしはこういう文章、こういう物語を読みたかったんだな」という気分になる。すっと流れ込んでくるようでいて、なまあたたかい血の感じを残していくような。ふと見つけた空洞を覗いたら、その中の空気の冷たさにびくっとするような。そんな文章。大袈裟な表現やわざとらしい堅さのない、滑らかだけれど饒舌ではないことばたち。 

物語の中の人々は、一見するとどことなく、「ごく普通の世界」から外れたところにいるように思える。何か大きな欠落を抱えているようにみえる。それは、現実的には不可解なことが彼らの周りで起こるから、というわけでは、おそらくない。むしろ、彼らの周囲にそういう空白がある気がするので、現実に起こったら信じられないようなできごとがえがかれていても「ああ、そういうことがあったんだな」と受け入れてしまう。現実と夢か、此岸と彼岸かわからないが、境目が曖昧になる。ちがう平面どうしがねじれて、メビウスの環のようにつながっている。ねじれは、始めからそうだったかのように、当然のような顔をしてそこにある。ほんとうに元からあったのかもしれない。

彼らには、一方で妙なリアリティもある。わたしはいくつかの短編を読みながら、自分が好きな小説や歌詞の一節をノートに書き写すとき、それらのことばをより近くに引き寄せているように感じているということに気づいたり、幼い頃、耳の中に象を飼っていたことを思い出したりした。

(説明しておくと耳の中の象というのは、なんのことはない、当時たびたび中耳炎を発症していたわたしが生み出したものだ。彼、あるいは彼女かもしれないが、とにかくその象は時折耳の中で騒ぎだしたり、音の通り道を塞いだり、どこからか仲間を連れてきて行進したりしていた。)

誘拐の女王も、同志を探す少女も、サー叔父さんを慕うあの子も、わたしはどこかで知っているような気がしてくる。

 

もうひとつ、この短編集にリアリティを感じるところ。逆説的にも思えるが、「不時着」というタイトルに象徴されるように、ひとつひとつのお話がはっきりした結末を持たず、ふっとフェードアウトしていくような形で終わってしまう、そのことがかえってほんとうらしく思える。

伏線がすべてどこかに繋がっていて回収されて事件が解決したり、大団円を迎えたり、登場人物が何かを明確に手に入れたり失ったり、そういうストーリーもわたしは好きだ。ちゃんと感動できるし、安心できる。

けれど、実際に起こるできごとというのは、はっきりした解決とか結末を持たずに続いていくことのほうがずっと多いという気がする。そういう区切りや決着がないほうがいいことだって少なくない。なにもかもがすっきり理解できるわけではない。

だから、物語の中の彼らが、説明しきれない部分や、外から見る限りでは埋めようがなさそうな空白、欠落を抱えながら、それに対して特に答えを示すわけでもなく、彼らなりの居場所にとにかく不時着するのを見て、わたしはその先を案じる半面安堵する。そこに空白はあっていいのだと。境界線のわからなくなるような部分があってもいいのだと。それは紛れもなくじっさいにあるものなのだから。

 

それにしても、一読目は文章の流れ込んでくるままに読み進めてしまった。こんどはあたためた牛乳をゆっくり、ひとくちずつ飲み下すように、読み返してみたい、そんな短編集。

 

〔追記〕

『不時着する流星たち』を読んだ後、遅まきながら『薬指の標本』を読んでみた。

境界線が溶けてあいまいになっていく感覚がここにもあった。自己と他者の、あるいはじぶんのからだとそれを取り囲む空間の。

解説のなかで「からだがなくなる」という表現が出てきていたが、わたしはどちらかというと、からだ「だけ」がなくなるというよりもさきほど書いたような「境目があいまいになってわからなくなる」という感覚がしっくりきた。言わんとすることは同じかもしれないけれど。

小川さんの小説特有の読後感だという気がする。

 

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薬指の標本 (新潮文庫)

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