一時停止場所にて

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「天から送られた手紙」

中谷宇吉郎という科学者がいます。

「雪は天から送られた手紙である」という言葉で知られる、雪・氷に関する研究の第一人者です。

1932年から雪の結晶についての研究を開始し、その4年後、世界に先駆けて人工の雪の結晶をつくることに成功しました。

そのような実験物理学者としての実績に加えて、彼は多くの随筆をのこしてもいます。雪や氷の研究に関する文章はもちろん、科学教育についての話、自伝的な文章、自身の子どもたちの話、彼の師である物理学者の寺田寅彦の思い出など、内容はさまざまで、そのどれにも、科学者としての冷静な観察眼や筋の通った態度と、人間味のあるユーモアとの両面が感じられます。

わたしは宇吉郎の文章のファンなのです。

 

寺田寅彦もやはり科学者であるとともに随筆の著者として知られており、わたしはそうした科学者の書く随筆を読むと、客観的な描写や無駄のない文章にひんやりとした心地よさを覚えます(まったく科学的でない感想ですが)。

宇吉郎の随筆を読んでいる時にはそれと同時に、えがかれているものの温度や手触り、においのようなものが文章から立ち上ってくる気がするのです。彼が子どものころに宇宙創成の日を重ねて思い描いたという仏壇の間の燈明の光の揺らぎや、雪の研究のために赴いた十勝での、青空の見えた朝の空気のようなものでさえ、不思議と自分にも親しみのあるものに感じられます。

描写そのものはやはり冷静で淡々としていながら、彼が科学教育について語る中で重視している、知識や理論以前の自然への驚き、純粋な興味のようなものが、彼自身の文章の根底にもあるように思うのです。

それから、彼の文章の端々には、子どもたちに対するやさしいまなざしが表れているようです。「イグアノドンの唄――大人のための童話――」という一篇には、宇吉郎がコナン・ドイルの『失われた世界』という作品を子どもたちに読んで聞かせる場面が描かれています。話を聞きながら上気した顔を見せたり目を輝かせたり、物語に登場するイグアノドンの唄を作って歌ったりする子どもたちの様子をとらえた文章を読んでいると、宇吉郎の父親としてのやさしさをうかがうことができる気がするのです。

わたしは宇吉郎の文章と、そこからうかがえる科学者としての、また親としての態度にあこがれるのだと思います。

 

先日、銀座メゾンエルメスフォーラムで開催されている「グリーンランド/中谷芙二子+宇吉郎展」を見に行ってきました。

中谷芙二子さんは宇吉郎の次女で、人工の霧を用いたインスタレーションなどを数多く手がけてきたアーティストの方だということです。

展示では彼女の新作≪Glacial Fogfall≫のほか、過去のインスタレーションの映像やビデオ作品も観ることができます。

わたしは正直なところインスタレーションというものについてあまり理解していないのですが、霧が噴き出してあたりを覆っていく様は生き物のようにも波のようにも見えて、その中に自分が入っていくというのも幻想的な体験でした。

いずれの作品を見ても、純粋に自然への興味を追究するという、父親と同じ姿勢がそこにはあらわれている気がします。

そうした作品とともに、宇吉郎の実験ノートや製図の器具、研究のためグリーンランドに滞在した際のスライドなども展示されていました。

結晶の写真や図とともに計算やメモが細かく書き込まれたノートを見ていると、今度はそこに一種の詩情が感じられてきます。

冒頭で挙げた「雪は天から送られた手紙である」ということばは、もちろん、雪の結晶から気象現象などについて知ることができるといった意味のたとえとして読むことができますが、それだけではなくほんとうに、雪を文字通りに天からの手紙として受け取るような自然現象への純粋なまなざしを、宇吉郎はもっていたのかもしれない。そんな気分にもなってくるのでした。

 

そんな、科学的な客観性とは程遠い漠然とした感想を抱きながら、わたしもそういう姿勢で好きなものに対峙したり、それについて語ったりしたいと、考えているところなのです。

 

 

中谷宇吉郎随筆集 (岩波文庫)

中谷宇吉郎随筆集 (岩波文庫)

 
雪は天からの手紙―中谷宇吉郎エッセイ集 (岩波少年文庫)

雪は天からの手紙―中谷宇吉郎エッセイ集 (岩波少年文庫)