一時停止場所にて

好きなものの話、わからないものの話、日々の雑念など

そこから妄想が動き出すのである

テレビなどでモノマネを見たりすると、「本人以上に本人らしい」ということが往々にしてある。

本人の喋り方や立ち振る舞いの特徴を強調することで「あの人そっくり!」と思わせるのがモノマネという芸なのだから、当然といえば当然だろう。いわば、モノマネを通して「その人らしさ」が抽出され濃縮される。これはおそらく喋りや歌に限ったことではなく、他の表現手法であっても同じなのではないか。小説や随筆にしても、ある作家の文体に顕著な点を取り上げて、それを此処彼処に散りばめることで、作家本人の成分を数倍から数十倍に濃縮したような文章が出来上がるであろう。そもそもの文体が特徴的な作家であればなおさらこの濃度は高くなると考えられる。こうなると読む方はその作家のファンだったとしても少々胃もたれする。

と、ここまで書いてきたのはじつはその実践なのだが、読者諸賢には私が誰の文章を真似て書いているかおわかりいただけるだろうか。

勘のいい方は「読者諸賢」という言葉で確信されたかもしれない。乙女や狸が京都の街を闊歩する物語でよく知られたあの小説家である。

 

前置きが長くなったのだけれど(ここからは普通に書きます)、今回は森見登美彦氏のエッセイ『太陽と乙女』を読んだという話をしたかったのだ。

 

太陽と乙女

太陽と乙女

 

わたしは高校時代、国語の先生に薦められて読んだ『夜は短し歩けよ乙女』をきっかけとして森見ワールドの虜になった。

森見作品のどこがそんなに好きなのかというと、独特で軽妙な語り口や奇想天外で愉快極まりない展開、リアリティがあるんだかないんだかわからない腐れ大学生の日常といった題材、登場人物(時に人ではないものもいるけれど)の魅力、など挙げればキリがない。作品によっても魅力は少しずつ違ったりする。けれどもどの作品にも共通する点というのは、「この路地裏がなんだかよくわからないオモチロイところに通じているのかもしれない!」とか、「京都の街には得体のしれない何かがいてもおかしくなさそうだ」とか本気で思ってしまうような、現実と非現実、日常と非日常の境目がふわふわと曖昧になる感覚かもしれない。『夜は短し~』を例にとるなら、李白さんの電車や樋口さんのような天狗的人物が当然のようにいる街、それが京都なのだ。恐ろしい街!(わたしは現実の京都に対して何ら悪い感情を抱いてはおりません。悪しからず。)

 

閑話休題。『太陽と乙女』は、登美彦氏が作家として活動を始めてからのあらゆる(小説以外の)文章を網羅したエッセイ集だ。これを読むと、先に書いたような「境目がふわふわと曖昧になる感覚」というのは著者の実感に基づくものなのだと感じられる。

幼いころから見るものに「小説の種」になるものを探し、父親と一緒に「探検」したり、坂道や横道、商店街、路地に物語への入り口を見出したり、自分の住んでいた街を「千と千尋の神隠し」の最初のシーンに重ねたり。そんな著者にとっては、「現実」だと思われているものと「非現実」(もしくは妄想)だと思われているものはどこかでふわっとつながっているものなのだろうか。

四畳半から、食卓のベーコンエッグから、カーブした坂道から。ひょんなところからひとつの世界が立ち上り、動き出す。の、かもしれない。