特にこれといった主張もないのですが
そういえばこのブログ、毎回文章が常体だったり敬体だったり、突然某小説家の真似が始まったりと文体が落ち着かないのですが、それはわたしにとって、書きたい内容、扱う対象、テーマによってどういう文体が書きやすいかというのが違うからなのです。
ですので、そのせいで多少読みにくいと感じさせることがあるかもしれませんが、そのあたりはご容赦いただきたく思います。そもそも一貫性のないブログなのです。
……という、だれにも求められていないかもしれない弁明を、この場を借りてさせていただきます。
形の上で一貫性のないことは必ずしも悪いことではないはずだと思うのです。わたしの好きな作家のひとりである夏目漱石も、一文一文が詩のように作りこまれた「虞美人草」のような初期の作品と、淡々と登場人物の内面を描き出す後期の「こころ」や「明暗」とでは、作風が大きく違う。「吾輩は猫である」に至っては語り手が人間ですらない。
それから、わたしはフジファブリックというバンドがとても好きですが、彼らの音楽もアルバム1枚ごと、いや、1曲ごとに違うアプローチを示しているのです。さまざまな手法を試みることは表現者にとってはむしろ大事なことなのではないかと思うのです。
「お前と一緒にするな!」とあらゆる方面から怒られそうなことを書いてしまいました。申し訳ない。
話は変わり、さきほど夏目漱石が好きだと書きましたが、漱石の門下生の一人に寺田寅彦という学者がいます。
その寺田寅彦のさらに弟子にあたる人物に、以前このブログに書いた中谷宇吉郎がいるのです。
もう一つ思い出しました。やはり漱石の門下にいた作家として内田百閒が挙げられます。
先日読み終えた森見登美彦氏のエッセイから察するに、百閒は登美彦氏の愛読書(?)の中に含まれている様子。作品にもその影響は多少なりともあるような気がします。
だから何というわけではないのですが、好きなもの同士がつながるのは面白いなとふと思ったので書いてしまいました。
上で名前を挙げたフジファブリックについてであるとか、好きな音楽についての話もおいおいこのブログで書いていくことになりましょう。
何の話かさっぱりわからない文章が出来上がってしまいましたが、ひとまずこのブログは文体も内容も気ままにやっていきます、ということで。