一時停止場所にて

好きなものの話、わからないものの話、日々の雑念など

音楽の神様がいるとしたら――恩田陸『蜜蜂と遠雷』感想

久しぶりの投稿です(というかこのブログの投稿が久しぶりでないことなんて今までなかった)。

 

今回も本の感想。読み終えて、これほどまでに「すぐにでも今自分が感じていることを書き留めたい!」と思った本というのは私にとっては珍しい。

と言いつつゴールデンウイーク中に読んでいたので実は読み終えてからだいぶ経ってしまったのだけれど、それはさておき。

 

その本というのは、恩田陸さんの『蜜蜂と遠雷』。

 

 

蜜蜂と遠雷(上) (幻冬舎文庫)

蜜蜂と遠雷(上) (幻冬舎文庫)

 
蜜蜂と遠雷(下) (幻冬舎文庫)

蜜蜂と遠雷(下) (幻冬舎文庫)

 

 

国際ピアノコンクールを舞台に、様々な背景を持つコンテスタントたちの葛藤や交流、変化、彼らが音楽と向き合うさまを描いた作品。

 

単行本としては2016年に出ていて、直木賞本屋大賞も受賞した作品なので「今さら⁉」と思われそうだが、私としてはもちろん気になってはいながらもずっと読むタイミングを逸し続けてきたところ、先月ふらっと立ち寄った本屋さんの店先にて、文庫化されたこの作品とバチーーンと目が合い、「今だ!!」と直感してようやく読むに至ったのだ。

(単行本は持ち歩きながら読むには重たい(物理的に)な……と、あわよくば文庫化されるのを待ってから読もうという気持ちがまったくなかったというわけではないかもしれないけれども)

 

ということで、前置きはこれぐらいにして、以下は一読しての感想です(なお、ネタバレを多分に含みます。ご了承ください)。

 

初めに、一言でまとめるなら、この作品は私にとっていくつかの視点で楽しむことのできる、そしてどの視点でも心動かされるものだった。いくつかの視点というのはたとえば、

・それぞれの登場人物に自分を重ねた視点

・登場人物たちのファンとしての視点

・元ピアノ教室の生徒としての視点

・音楽を好きだと自認している者としての視点

・いわゆる一般人であるところの、生活者としての視点

というような。

 

それゆえに感想も視点ごとに出てくるのだけれど、まずそれ以前のところで、コンテスタントたちの演奏を描写する恩田陸さんの文章にはほんとうに感銘を受けずにいられなかった。

 

 あっというまに曲はバッハからモーツァルトになり、またいちだんと曲の色彩が明るく、輝かしくなった。文字通り、ステージが発する光が強くなったように感じられた。

(中略)

 まさに、モーツァルトの、すこんと突き抜けた至上のメロディ。泥の中から純白の蕾を開いた大輪の蓮の花のごとく、なんのためらいも、疑いもない。降り注ぐ光を当然のごとく両手いっぱいに受け止めるのみ。

(「第一次予選:ハレルヤ」より。上巻p.282-283)

 

演奏されている曲についての知識を押さえているというだけでなく、きちんとその演奏を聴いて曲についての理解を自分のものにしていないと、こういう表現をすることはできないのではないかと思う。

コンクールの中で演奏される曲ひとつひとつについて、曲の歴史的背景や技術的な知識などもふまえながら、巧みな比喩を織り交ぜて、上に挙げたような立体的で五感にうったえる文章で描かれているのだ。

この本を読みながら私が覚えた高揚感や興奮、読み終えた時の心地よい疲労感は、ほんとうにライブやコンサートを観た時のそれに匹敵するものだった。ホールに響く音の豊かさ。超絶技巧の凄まじさ。一発勝負の生演奏の緊張感、スリル。曲がクライマックスに達する瞬間のカタルシスのようなもの。それらが文章からリアルに伝わってきて、その時、私も確実にあのコンクールの会場にいた。

高揚感というところでいうと、「ボヘミアン・ラプソディ(言わずもがなあの映画)観た時みたいな感覚だ……」というのが読み終えて最初に思い浮かんだことだった。ボヘミアン・ラプソディは昨年末に観た。めちゃくちゃ良い映画だった。ライブエイドのシーンでほんとうに胸が熱くなった。Queen格好良いですね。

話が脱線しかけたけれど、つまり、文章だけで実際のライブ、コンサートやその映像に負けないぐらいの「音楽体験」をさせてくれるというところが恩田さんの凄いところだなと思うのだ。これがこの本を読み終えてすぐに「感想を書きたい!」と思った理由のひとつ。

 

私自身、好きなバンドの楽曲を聴いたりライブに行ったりしてそのレビューやライブレポートのような形で感想を書くことがあるけれど、これだけ内容が濃く、精緻で的確で、読む人にもその音楽の熱量が伝わるような文章というのはなかなか書けるものではないと思う。その点において、この『蜜蜂と遠雷』はほんとうに素晴らしかった。

 

演奏の描写についての話だけで結構な文字数を割いてしまった。書きたいことはまだまだあります(長いとか言わないで)。

 

いくつかの視点で楽しめたし心動かされた、と最初に書いたけれども、その中で特に強く印象に残ったこととして、ひとつはコンテスタントたちの音楽への向き合い方があり、そしてもうひとつには、「音楽」それ自体のこの作品における在り方がある。

 

表舞台から姿を消したかつての天才少女・栄伝亜夜が再び音楽に向き合う過程。エンターテイナーとして優れていながらもポピュリズムには流れず、求道者のように音楽というものを追究していくマサル・カルロスの姿勢。生活者の音楽を表現しようとする高島明石の努力。「音楽を世界に連れ出す」という師匠との約束を果たすような、風間塵の自由で開かれた演奏。

 

出自も境遇も違う、演奏家としてのタイプも異なる4人のコンテスタントが、コンクールを通じて互いに影響を受けながら、それぞれの音楽を見出したり、表現したりしていくさまは人間ドラマとしてもおもしろい。亜夜の復活と進化には何度も涙ながらに拍手喝采したくなったし、明石の努力が報われた時にも一緒に喜びたい気持ちでいっぱいになった。気づけば完全に彼らのファンになっていたし、彼らがどんな心境でどんな演奏をするのか、一次予選から本選に至るまで夢中で追いかけていた。

 

それに、ひとつのことにすべてを捧げて正面から向き合うコンテスタントたちの姿勢には、音楽に関することに限らず感じるものがある。

特に、「自分は音楽に向き合っていたつもりだったけれど逃げていた」ということをはっきりと認めた上で再びステージに帰っていく亜夜や、家庭もある社会人としてコンクールに臨み、不安や疲労とも闘いながら自分の演奏をやり遂げる明石を見ていると、つい自らを省みていたたまれなくなることも多々あった。私にももっと誠実に向き合うべきことがあるな……と、読みながら気持ちを新たにしたものの、その後何か変わったわけではないというのは言うまでもないのだけれど。

 

ただ、この作品は彼ら4人のコンテスタントの物語というところにはとどまらず、音楽そのものについての話でもある。これが先ほど書いた2つ目の話。

 

 「音楽を世界へ連れ出す」というのは上に書いたように風間塵が師匠と交わした約束であり、この作品のキーワードにもなっていると思う。

「世界に連れ出す」とはどういうことか。

物語の最後に出てくる風間塵と亜夜の対話にそれは端的にあらわされているのだけれど、もともとは自然の中に満ちていたはずの音楽をあるべきところに返す、というのが塵の目指すところだという。

音楽はもともと私たちの生きている世界に満ちていた、あるいは生きるということそれ自体ともっと近くにあったはずなのだ、と。

 

私の解釈が正しいという自信はないけれど、音楽が「閉じ込められている」状態というのは、例えば、商業としての、消費されるものとしての音楽であったり、一部の人だけが楽しむものとしての「高尚な」音楽であったり、むずかしいことばで批評され分析されるものとしての音楽であったり、そういう状態を指すのだろうか。

けれども、ほんらいの音楽というのはそうではない。

 

 この、命の気配、命の予感。これを人は音楽と呼んできたのではなかろうか。恐らくこれこそが、音楽というものの真の姿なのではなかろうか。

 少年は、漠然とそんなことを考える。

(「本選:ミュージック」より。下巻p.489.)

 

音楽とは命の営みそのものだと、世界を祝福する音なのだと彼はいう。

そうなのかもしれない。そういうものとしてある音楽にこそ、私たちは(紋切型の表現で申し訳ないけれど)生きるちからをもらったり、魂を揺さぶられたり、あるいはその音楽と一体になっているような気分になったり、するのかもしれない。

 

 波であり振動である何かが、世界にあまねく響き渡っていた。

 その響きにじっと聴き入っていると、自分の存在そのものがすっぽりと包まれているような気がして、心が凪いでくるのを感じた。

 今、改めてこの時の光景を見ることができたならば、きっとこう言ったことだろう。

 明るい野山を群れ飛ぶ無数の蜜蜂は、世界を祝福する音符であると。

 そして、世界とは、いつもなんという市場の音楽に満たされていたことだろう、と。

(「エントリー:テーマ」より。上巻p.14)

 

この物語の主人公は、実は音楽そのものなのかもしれないな、なんて。

音楽の神様がいるとしたら、きっとこの本のことも祝福してくれるだろう。

 

余談なのだけれど、昔々ピアノを習っていたことのある私は、この本を読んだ後どうにもこうにもピアノが弾きたくなり、ピアノの置いてあるスタジオに時たま通うようになってしまった。

それにしても指の回らないこと。音楽の神様もそこまでの面倒は見てくれない。

 

小説を読むということ――森見登美彦『熱帯』感想

あけましておめでとうございます。

昨年の11月頃に読んだ本の感想を今頃になって書こうとしているわけですが、果たして内容を覚えているのだろうか。

一抹の不安はありますが、「これは感想を書きたい!」と思っていたので今さらながらブログにしたためようと思います。若干ネタバレになるかもしれませんのでこれから読む予定の方はご注意を。

 

森見登美彦さんの最新作『熱帯』を読みました。

 

 

熱帯

熱帯

 

 

端的に言ってめちゃくちゃおもしろかった。

小説にこんなにのめりこんで睡眠時間まで削られたのは久しぶりかもしれません。

 

突然ですが、「クラインの壺」というのを聞いたことがあるでしょうか。

同名の小説があるようなのでややこしいかもしれませんがそのことではなく、中と外の区別がない立体だそうです。

裏表のない「メビウスの帯」の立体版という感じ(極めて雑な説明なので気になる方は調べていただくのが良いかと思います…)。ただしこれは三次元の空間では作ることができないのだとか。

中と外がない。つまり、壺の内側の平面だと思って辿っていくといつの間にか外に出ていて、外側の平面だと思っていたら内側に入っている。不思議なものです。

 

さて、なぜ急に「クラインの壺」の話をしたかというと、この小説『熱帯』を一読して受けた印象がまさにそれだったからです。

外側にいると思ったら内側に入っている、かと思ったらいつの間にか外に出ている。

 

『熱帯』の中には、重要な鍵ともなるモチーフとして『千夜一夜物語』が出てきます。『アラビアン・ナイト』や「シンドバットの冒険」としてなじみ深いであろうこの物語は、シェヘラザードが王に語ったものであり、またその物語の中で登場人物が新たな語り手となるという入れ子構造になっています。『熱帯』もそのような入れ子構造の話になっているのかなと途中までは思うのですが、読み進めるにつれ、そう一筋縄ではいかないのが森見作品なのである、というのを改めて認識させられます。

 

読み終えて、少々狐につままれたような、それでいて妙に納得させられてしまうような。

 

『熱帯』は「『熱帯』という名前の幻の本――誰もその本を最後まで読んだことがない――をめぐる物語」であるという意味でも「小説についての小説」なのですが、その「冒険」の過程というのが「小説を読む時・小説を書く時に起こっていること」のあらわれであるという意味でも、これは「小説についての小説」なのだなと思うのです。

特に後半は森見さんの、物語というものに関する思考の海の中に潜らせてもらって、その海の中から小説が形作られていく過程を眺めているような気分になりました。その過程のなんと奇想天外でおもしろいことか。

やはり作家生活15周年という節目、集大成と呼ぶにふさわしい大作だなあと思ったわけです。

 

集大成といえば、これまでの森見作品に通じる様々なモチーフや世界観、場面展開の仕方であったり、森見さんの原点にあるのであろう『ロビンソン・クルーソー』のような物語へのオマージュであったり、そういうものが随所に見られるのがうれしくもありました。『熱帯』はこれまでの森見作品とはまた違った切り口の作品ですが、これまでの作品のエッセンスも取り込んで醸成されたという感があります。

読んでいる間の没入感も、読み終えた時の「読んでやった!」という充実感も、ここ最近読んだ小説の中で一番でした。「小説についての小説」、まさに怪書(作者本人談)であり、快書です。

 

「感想を書きたい!」と言っていた割には、あらすじをまとめるのが難しいというのもあり非常に抽象的な文章になってしまいました。ネタバレどころかまだ本書を読んでいない人には何のこっちゃという感じでしょう。2019年最初の記事だというのにすみません。

 

とはいえ、2018年に読んだ小説の中で(そんなに数は多くないという注釈はあるものの)間違いなく個人的ベストヒットだったのがこの『熱帯』でした。

ぜひご一読を。

「今出川通りに面した席」には座れなかったのが心残り

随分と久しぶりの更新になりました。

もう忘れられていたのではなかろうか(そもそもそんなにこのブログを読んでいる人がいないというのはさておき)。

書きたい話はいろいろあったのですけれど、人に読ませることができるような文章にまとめるとなるとそれなりに労力が必要だなあとつくづく感じている今日この頃です。

私の好きな某バンド、FジファブリックのY内さんという人はブログを溜めに溜めて、巻物のような長さのそれを投稿するということが度々あるので(今年はそうでもないけれど)それにならって前回の更新以降で書きたかった話を全部書くということも考えたのだけれども、それはさすがに無謀なので断念。

とはいえあまり放置してもしかたないので、とりいそぎいちばん最近の書きたかった話を。

 

先月ひとりで京都に行く機会があったので、森見登美彦作品好きとしてはこれはチャンスと思い、『夜は短し歩けよ乙女』『四畳半神話大系』に登場する場所や『森見登美彦の京都ぐるぐる案内』で紹介されていた作者ゆかりの地をめぐってみました。

京都に行くことはこれまでにも修学旅行であるとか友人との旅行などで何度かあったけれど、好きな小説の、いわゆる「聖地巡礼」のようなことはなかなかほかの人と一緒だとできない。ということで今回は千載一遇の(というと大げさですが)好機であったわけです。

特に『夜は短し歩けよ乙女』は、初めて読んだ9年前からずっと大好きな、思い入れも深い作品。四条木屋町先斗町界隈を歩いてみたり、作中に登場するバー「月面歩行」のモデルになったとされる「bar moon walk 四条木屋町店」に足を踏み入れた時の喜びといったら。

ちなみに店内では映画版の「夜は短し歩けよ乙女」が音声なしで映像のみ流れており、映像を観ながら大体の台詞は頭の中で補完できていることに気づいて若干自分に引いたのはここだけの話。

何よりうれしかったのは京大北門前の喫茶・進々堂に行けたことでした。

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夜は短し歩けよ乙女』では最後のシーンに登場する喫茶店。あのラストシーンは、それこそ読んでいるこちらも「お腹の底が温かくなる」気がして、あの本が私にとってただ単に面白おかしい作品としてではなく、とてもいとおしくて大切な一冊である理由がそこに集約されているともいえる場面だと思います。これは冗談ではなく本当に。

そんな場面の舞台として記憶されている進々堂で飲むコーヒーは、それこそ作中の偽電気ブランではないけれど、「人生を底の方から温めてくれる」ような気さえしました。

 

京都から帰った後、久しぶりに『夜は短し歩けよ乙女』を読み返しました。以前より少しばかり京都の地理が(自分が歩いたところだけは)わかって、地名を見たときにその街の光景や雰囲気もイメージできるようになっていたのは喜ばしいことでした。本を読み進めるにつれ、先輩や黒髪の乙女は以前よりいっそういきいきと京の街を駆け巡ってくれるようになりました。そして、やはり相変わらずこの作品は私にとってとてもいとおしいなと再三思うのでした。

 

久しぶりの投稿で特にこれといった落ちもない話でしたが、とにかくこんなふうに何かを好きでいることで人生の温度が少し上がるというのはとても良いなあ、と思っている次第です。

 

夜は短し歩けよ乙女 (角川文庫)

夜は短し歩けよ乙女 (角川文庫)

 

 

歌詞雑感・車輪の唄

BUMP OF CHICKENの「車輪の唄」という曲を何気なく口ずさんでいたら、歌詞の一節にこれまで感じたことのなかった引っかかりを覚えた。

 

券売機で一番端の

一番高い切符が行く町を 僕はよく知らない

 

その中でも 一番安い

入場券を すぐに使うのに 大事にしまった

 

(「車輪の唄」詞:藤原基央

 

「一番高い切符」と「一番安い入場券」の対比、その入場券を「大事にしまった」という「僕」の心境を想像してせつなくなる、初めて聴いた時からとても好きな一節なのだけれど、さっき引っかかったのは 「よく知らない」というところだ。

 全く何も知らないというのではなく「よく知らない」。

 

「よく」は知らないのだから、言い換えれば少しだけは知っている。その町の名前ぐらいは聞いたことがあるのかもしれない。もしかしたらテレビか何かで見たことのある町なのかもしれない。人づてにどんなところか聞いたことがあるのかもしれない。でもきっと行ったことはないし、この先も行くことはないのだろうなと思っている。

そんな町に「君」は向かう。

 

と、そんな筋書きが「よく知らない」という言い回しから浮かんだ。

券売機の路線図に載っている駅なのだから単純な距離で言ったらそんなに遠くもないのではないかと思うのだけれど、そういう、「全く知らないわけではないけれど自分とは縁遠い場所」に「君」が行ってしまうというのは、もしかすると全然知らない場所に行くのよりも、遠くに行ってしまうという実感が強いのではないかという気がしたのだ。

 

あるいは、その町のことを「よく知らない」けれど少しだけ知っている主人公が、その町にどこかであこがれを抱いていたとしたら、この曲のストーリーはまた少し違う見え方をしてくる。自分のいるところを離れてその町のほうに行くのであろう「君」は、さっきのとは微妙に違う意味で、しかしやはり遠い存在になってしまう。

 

と書いてきたけれど、実際のところこの「よく知らない」という言葉選びにそこまで深い意味があるのかどうかはあやしい。

昔聴いていたときはこんなことは考えなかったのだけれど、最近どうも枝葉に気を取られすぎる。困ったものだ。

特にこれといった主張もないのですが

そういえばこのブログ、毎回文章が常体だったり敬体だったり、突然某小説家の真似が始まったりと文体が落ち着かないのですが、それはわたしにとって、書きたい内容、扱う対象、テーマによってどういう文体が書きやすいかというのが違うからなのです。

ですので、そのせいで多少読みにくいと感じさせることがあるかもしれませんが、そのあたりはご容赦いただきたく思います。そもそも一貫性のないブログなのです。

……という、だれにも求められていないかもしれない弁明を、この場を借りてさせていただきます。

 

形の上で一貫性のないことは必ずしも悪いことではないはずだと思うのです。わたしの好きな作家のひとりである夏目漱石も、一文一文が詩のように作りこまれた「虞美人草」のような初期の作品と、淡々と登場人物の内面を描き出す後期の「こころ」や「明暗」とでは、作風が大きく違う。「吾輩は猫である」に至っては語り手が人間ですらない。

それから、わたしはフジファブリックというバンドがとても好きですが、彼らの音楽もアルバム1枚ごと、いや、1曲ごとに違うアプローチを示しているのです。さまざまな手法を試みることは表現者にとってはむしろ大事なことなのではないかと思うのです。

 

「お前と一緒にするな!」とあらゆる方面から怒られそうなことを書いてしまいました。申し訳ない。

 

話は変わり、さきほど夏目漱石が好きだと書きましたが、漱石の門下生の一人に寺田寅彦という学者がいます。

その寺田寅彦のさらに弟子にあたる人物に、以前このブログに書いた中谷宇吉郎がいるのです。

もう一つ思い出しました。やはり漱石の門下にいた作家として内田百閒が挙げられます。

先日読み終えた森見登美彦氏のエッセイから察するに、百閒は登美彦氏の愛読書(?)の中に含まれている様子。作品にもその影響は多少なりともあるような気がします。

 

だから何というわけではないのですが、好きなもの同士がつながるのは面白いなとふと思ったので書いてしまいました。

 

上で名前を挙げたフジファブリックについてであるとか、好きな音楽についての話もおいおいこのブログで書いていくことになりましょう。

 

何の話かさっぱりわからない文章が出来上がってしまいましたが、ひとまずこのブログは文体も内容も気ままにやっていきます、ということで。

そこから妄想が動き出すのである

テレビなどでモノマネを見たりすると、「本人以上に本人らしい」ということが往々にしてある。

本人の喋り方や立ち振る舞いの特徴を強調することで「あの人そっくり!」と思わせるのがモノマネという芸なのだから、当然といえば当然だろう。いわば、モノマネを通して「その人らしさ」が抽出され濃縮される。これはおそらく喋りや歌に限ったことではなく、他の表現手法であっても同じなのではないか。小説や随筆にしても、ある作家の文体に顕著な点を取り上げて、それを此処彼処に散りばめることで、作家本人の成分を数倍から数十倍に濃縮したような文章が出来上がるであろう。そもそもの文体が特徴的な作家であればなおさらこの濃度は高くなると考えられる。こうなると読む方はその作家のファンだったとしても少々胃もたれする。

と、ここまで書いてきたのはじつはその実践なのだが、読者諸賢には私が誰の文章を真似て書いているかおわかりいただけるだろうか。

勘のいい方は「読者諸賢」という言葉で確信されたかもしれない。乙女や狸が京都の街を闊歩する物語でよく知られたあの小説家である。

 

前置きが長くなったのだけれど(ここからは普通に書きます)、今回は森見登美彦氏のエッセイ『太陽と乙女』を読んだという話をしたかったのだ。

 

太陽と乙女

太陽と乙女

 

わたしは高校時代、国語の先生に薦められて読んだ『夜は短し歩けよ乙女』をきっかけとして森見ワールドの虜になった。

森見作品のどこがそんなに好きなのかというと、独特で軽妙な語り口や奇想天外で愉快極まりない展開、リアリティがあるんだかないんだかわからない腐れ大学生の日常といった題材、登場人物(時に人ではないものもいるけれど)の魅力、など挙げればキリがない。作品によっても魅力は少しずつ違ったりする。けれどもどの作品にも共通する点というのは、「この路地裏がなんだかよくわからないオモチロイところに通じているのかもしれない!」とか、「京都の街には得体のしれない何かがいてもおかしくなさそうだ」とか本気で思ってしまうような、現実と非現実、日常と非日常の境目がふわふわと曖昧になる感覚かもしれない。『夜は短し~』を例にとるなら、李白さんの電車や樋口さんのような天狗的人物が当然のようにいる街、それが京都なのだ。恐ろしい街!(わたしは現実の京都に対して何ら悪い感情を抱いてはおりません。悪しからず。)

 

閑話休題。『太陽と乙女』は、登美彦氏が作家として活動を始めてからのあらゆる(小説以外の)文章を網羅したエッセイ集だ。これを読むと、先に書いたような「境目がふわふわと曖昧になる感覚」というのは著者の実感に基づくものなのだと感じられる。

幼いころから見るものに「小説の種」になるものを探し、父親と一緒に「探検」したり、坂道や横道、商店街、路地に物語への入り口を見出したり、自分の住んでいた街を「千と千尋の神隠し」の最初のシーンに重ねたり。そんな著者にとっては、「現実」だと思われているものと「非現実」(もしくは妄想)だと思われているものはどこかでふわっとつながっているものなのだろうか。

四畳半から、食卓のベーコンエッグから、カーブした坂道から。ひょんなところからひとつの世界が立ち上り、動き出す。の、かもしれない。 

「天から送られた手紙」

中谷宇吉郎という科学者がいます。

「雪は天から送られた手紙である」という言葉で知られる、雪・氷に関する研究の第一人者です。

1932年から雪の結晶についての研究を開始し、その4年後、世界に先駆けて人工の雪の結晶をつくることに成功しました。

そのような実験物理学者としての実績に加えて、彼は多くの随筆をのこしてもいます。雪や氷の研究に関する文章はもちろん、科学教育についての話、自伝的な文章、自身の子どもたちの話、彼の師である物理学者の寺田寅彦の思い出など、内容はさまざまで、そのどれにも、科学者としての冷静な観察眼や筋の通った態度と、人間味のあるユーモアとの両面が感じられます。

わたしは宇吉郎の文章のファンなのです。

 

寺田寅彦もやはり科学者であるとともに随筆の著者として知られており、わたしはそうした科学者の書く随筆を読むと、客観的な描写や無駄のない文章にひんやりとした心地よさを覚えます(まったく科学的でない感想ですが)。

宇吉郎の随筆を読んでいる時にはそれと同時に、えがかれているものの温度や手触り、においのようなものが文章から立ち上ってくる気がするのです。彼が子どものころに宇宙創成の日を重ねて思い描いたという仏壇の間の燈明の光の揺らぎや、雪の研究のために赴いた十勝での、青空の見えた朝の空気のようなものでさえ、不思議と自分にも親しみのあるものに感じられます。

描写そのものはやはり冷静で淡々としていながら、彼が科学教育について語る中で重視している、知識や理論以前の自然への驚き、純粋な興味のようなものが、彼自身の文章の根底にもあるように思うのです。

それから、彼の文章の端々には、子どもたちに対するやさしいまなざしが表れているようです。「イグアノドンの唄――大人のための童話――」という一篇には、宇吉郎がコナン・ドイルの『失われた世界』という作品を子どもたちに読んで聞かせる場面が描かれています。話を聞きながら上気した顔を見せたり目を輝かせたり、物語に登場するイグアノドンの唄を作って歌ったりする子どもたちの様子をとらえた文章を読んでいると、宇吉郎の父親としてのやさしさをうかがうことができる気がするのです。

わたしは宇吉郎の文章と、そこからうかがえる科学者としての、また親としての態度にあこがれるのだと思います。

 

先日、銀座メゾンエルメスフォーラムで開催されている「グリーンランド/中谷芙二子+宇吉郎展」を見に行ってきました。

中谷芙二子さんは宇吉郎の次女で、人工の霧を用いたインスタレーションなどを数多く手がけてきたアーティストの方だということです。

展示では彼女の新作≪Glacial Fogfall≫のほか、過去のインスタレーションの映像やビデオ作品も観ることができます。

わたしは正直なところインスタレーションというものについてあまり理解していないのですが、霧が噴き出してあたりを覆っていく様は生き物のようにも波のようにも見えて、その中に自分が入っていくというのも幻想的な体験でした。

いずれの作品を見ても、純粋に自然への興味を追究するという、父親と同じ姿勢がそこにはあらわれている気がします。

そうした作品とともに、宇吉郎の実験ノートや製図の器具、研究のためグリーンランドに滞在した際のスライドなども展示されていました。

結晶の写真や図とともに計算やメモが細かく書き込まれたノートを見ていると、今度はそこに一種の詩情が感じられてきます。

冒頭で挙げた「雪は天から送られた手紙である」ということばは、もちろん、雪の結晶から気象現象などについて知ることができるといった意味のたとえとして読むことができますが、それだけではなくほんとうに、雪を文字通りに天からの手紙として受け取るような自然現象への純粋なまなざしを、宇吉郎はもっていたのかもしれない。そんな気分にもなってくるのでした。

 

そんな、科学的な客観性とは程遠い漠然とした感想を抱きながら、わたしもそういう姿勢で好きなものに対峙したり、それについて語ったりしたいと、考えているところなのです。

 

 

中谷宇吉郎随筆集 (岩波文庫)

中谷宇吉郎随筆集 (岩波文庫)

 
雪は天からの手紙―中谷宇吉郎エッセイ集 (岩波少年文庫)

雪は天からの手紙―中谷宇吉郎エッセイ集 (岩波少年文庫)