音楽の神様がいるとしたら――恩田陸『蜜蜂と遠雷』感想
久しぶりの投稿です(というかこのブログの投稿が久しぶりでないことなんて今までなかった)。
今回も本の感想。読み終えて、これほどまでに「すぐにでも今自分が感じていることを書き留めたい!」と思った本というのは私にとっては珍しい。
と言いつつゴールデンウイーク中に読んでいたので実は読み終えてからだいぶ経ってしまったのだけれど、それはさておき。
国際ピアノコンクールを舞台に、様々な背景を持つコンテスタントたちの葛藤や交流、変化、彼らが音楽と向き合うさまを描いた作品。
単行本としては2016年に出ていて、直木賞も本屋大賞も受賞した作品なので「今さら⁉」と思われそうだが、私としてはもちろん気になってはいながらもずっと読むタイミングを逸し続けてきたところ、先月ふらっと立ち寄った本屋さんの店先にて、文庫化されたこの作品とバチーーンと目が合い、「今だ!!」と直感してようやく読むに至ったのだ。
(単行本は持ち歩きながら読むには重たい(物理的に)な……と、あわよくば文庫化されるのを待ってから読もうという気持ちがまったくなかったというわけではないかもしれないけれども)
ということで、前置きはこれぐらいにして、以下は一読しての感想です(なお、ネタバレを多分に含みます。ご了承ください)。
初めに、一言でまとめるなら、この作品は私にとっていくつかの視点で楽しむことのできる、そしてどの視点でも心動かされるものだった。いくつかの視点というのはたとえば、
・それぞれの登場人物に自分を重ねた視点
・登場人物たちのファンとしての視点
・元ピアノ教室の生徒としての視点
・音楽を好きだと自認している者としての視点
・いわゆる一般人であるところの、生活者としての視点
というような。
それゆえに感想も視点ごとに出てくるのだけれど、まずそれ以前のところで、コンテスタントたちの演奏を描写する恩田陸さんの文章にはほんとうに感銘を受けずにいられなかった。
あっというまに曲はバッハからモーツァルトになり、またいちだんと曲の色彩が明るく、輝かしくなった。文字通り、ステージが発する光が強くなったように感じられた。
(中略)
まさに、モーツァルトの、すこんと突き抜けた至上のメロディ。泥の中から純白の蕾を開いた大輪の蓮の花のごとく、なんのためらいも、疑いもない。降り注ぐ光を当然のごとく両手いっぱいに受け止めるのみ。
(「第一次予選:ハレルヤ」より。上巻p.282-283)
演奏されている曲についての知識を押さえているというだけでなく、きちんとその演奏を聴いて曲についての理解を自分のものにしていないと、こういう表現をすることはできないのではないかと思う。
コンクールの中で演奏される曲ひとつひとつについて、曲の歴史的背景や技術的な知識などもふまえながら、巧みな比喩を織り交ぜて、上に挙げたような立体的で五感にうったえる文章で描かれているのだ。
この本を読みながら私が覚えた高揚感や興奮、読み終えた時の心地よい疲労感は、ほんとうにライブやコンサートを観た時のそれに匹敵するものだった。ホールに響く音の豊かさ。超絶技巧の凄まじさ。一発勝負の生演奏の緊張感、スリル。曲がクライマックスに達する瞬間のカタルシスのようなもの。それらが文章からリアルに伝わってきて、その時、私も確実にあのコンクールの会場にいた。
高揚感というところでいうと、「ボヘミアン・ラプソディ(言わずもがなあの映画)観た時みたいな感覚だ……」というのが読み終えて最初に思い浮かんだことだった。ボヘミアン・ラプソディは昨年末に観た。めちゃくちゃ良い映画だった。ライブエイドのシーンでほんとうに胸が熱くなった。Queen格好良いですね。
話が脱線しかけたけれど、つまり、文章だけで実際のライブ、コンサートやその映像に負けないぐらいの「音楽体験」をさせてくれるというところが恩田さんの凄いところだなと思うのだ。これがこの本を読み終えてすぐに「感想を書きたい!」と思った理由のひとつ。
私自身、好きなバンドの楽曲を聴いたりライブに行ったりしてそのレビューやライブレポートのような形で感想を書くことがあるけれど、これだけ内容が濃く、精緻で的確で、読む人にもその音楽の熱量が伝わるような文章というのはなかなか書けるものではないと思う。その点において、この『蜜蜂と遠雷』はほんとうに素晴らしかった。
演奏の描写についての話だけで結構な文字数を割いてしまった。書きたいことはまだまだあります(長いとか言わないで)。
いくつかの視点で楽しめたし心動かされた、と最初に書いたけれども、その中で特に強く印象に残ったこととして、ひとつはコンテスタントたちの音楽への向き合い方があり、そしてもうひとつには、「音楽」それ自体のこの作品における在り方がある。
表舞台から姿を消したかつての天才少女・栄伝亜夜が再び音楽に向き合う過程。エンターテイナーとして優れていながらもポピュリズムには流れず、求道者のように音楽というものを追究していくマサル・カルロスの姿勢。生活者の音楽を表現しようとする高島明石の努力。「音楽を世界に連れ出す」という師匠との約束を果たすような、風間塵の自由で開かれた演奏。
出自も境遇も違う、演奏家としてのタイプも異なる4人のコンテスタントが、コンクールを通じて互いに影響を受けながら、それぞれの音楽を見出したり、表現したりしていくさまは人間ドラマとしてもおもしろい。亜夜の復活と進化には何度も涙ながらに拍手喝采したくなったし、明石の努力が報われた時にも一緒に喜びたい気持ちでいっぱいになった。気づけば完全に彼らのファンになっていたし、彼らがどんな心境でどんな演奏をするのか、一次予選から本選に至るまで夢中で追いかけていた。
それに、ひとつのことにすべてを捧げて正面から向き合うコンテスタントたちの姿勢には、音楽に関することに限らず感じるものがある。
特に、「自分は音楽に向き合っていたつもりだったけれど逃げていた」ということをはっきりと認めた上で再びステージに帰っていく亜夜や、家庭もある社会人としてコンクールに臨み、不安や疲労とも闘いながら自分の演奏をやり遂げる明石を見ていると、つい自らを省みていたたまれなくなることも多々あった。私にももっと誠実に向き合うべきことがあるな……と、読みながら気持ちを新たにしたものの、その後何か変わったわけではないというのは言うまでもないのだけれど。
ただ、この作品は彼ら4人のコンテスタントの物語というところにはとどまらず、音楽そのものについての話でもある。これが先ほど書いた2つ目の話。
「音楽を世界へ連れ出す」というのは上に書いたように風間塵が師匠と交わした約束であり、この作品のキーワードにもなっていると思う。
「世界に連れ出す」とはどういうことか。
物語の最後に出てくる風間塵と亜夜の対話にそれは端的にあらわされているのだけれど、もともとは自然の中に満ちていたはずの音楽をあるべきところに返す、というのが塵の目指すところだという。
音楽はもともと私たちの生きている世界に満ちていた、あるいは生きるということそれ自体ともっと近くにあったはずなのだ、と。
私の解釈が正しいという自信はないけれど、音楽が「閉じ込められている」状態というのは、例えば、商業としての、消費されるものとしての音楽であったり、一部の人だけが楽しむものとしての「高尚な」音楽であったり、むずかしいことばで批評され分析されるものとしての音楽であったり、そういう状態を指すのだろうか。
けれども、ほんらいの音楽というのはそうではない。
この、命の気配、命の予感。これを人は音楽と呼んできたのではなかろうか。恐らくこれこそが、音楽というものの真の姿なのではなかろうか。
少年は、漠然とそんなことを考える。
(「本選:ミュージック」より。下巻p.489.)
音楽とは命の営みそのものだと、世界を祝福する音なのだと彼はいう。
そうなのかもしれない。そういうものとしてある音楽にこそ、私たちは(紋切型の表現で申し訳ないけれど)生きるちからをもらったり、魂を揺さぶられたり、あるいはその音楽と一体になっているような気分になったり、するのかもしれない。
波であり振動である何かが、世界にあまねく響き渡っていた。
その響きにじっと聴き入っていると、自分の存在そのものがすっぽりと包まれているような気がして、心が凪いでくるのを感じた。
今、改めてこの時の光景を見ることができたならば、きっとこう言ったことだろう。
明るい野山を群れ飛ぶ無数の蜜蜂は、世界を祝福する音符であると。
そして、世界とは、いつもなんという市場の音楽に満たされていたことだろう、と。
(「エントリー:テーマ」より。上巻p.14)
この物語の主人公は、実は音楽そのものなのかもしれないな、なんて。
音楽の神様がいるとしたら、きっとこの本のことも祝福してくれるだろう。
余談なのだけれど、昔々ピアノを習っていたことのある私は、この本を読んだ後どうにもこうにもピアノが弾きたくなり、ピアノの置いてあるスタジオに時たま通うようになってしまった。
それにしても指の回らないこと。音楽の神様もそこまでの面倒は見てくれない。